夕暮れどきのインドの住宅街を歩くと、家々の入り口や祭壇に小さな炎が揺れているのを見かけます。素焼きの皿に綿の芯を置き、そこに注がれているのがギーであることも少なくありません。同じギーが、数時間前には台所で豆のカレーの香りづけに使われていたかもしれません。インドでは、ひとつの油が食卓と祈りの両方をつないでいます。
「振りかける」から生まれた言葉
ギーの語源は、サンスクリット語の「グリタ」です。さらにさかのぼると「振りかける」という意味の語根に行き着くといわれます。儀式の火にギーを注ぐ様子を思い浮かべると、その語感にも納得がいきます。古代ギリシャ語で「油を塗られた者」を意味する言葉と同じ系統だとする説もあり、油を注ぐ、塗るという行為が、遠く離れた文化で似た重みをもっていたことがうかがえます。
家で作る、家で使う
ギーはバターをゆっくり加熱し、水分を飛ばして澄んだ油だけをすくい取って作ります。ブリタニカ百科事典は、ギーを小麦や米と並ぶほどインドで広く使われる食品として紹介しています。市販品も多く出回っていますが、家庭で牛乳からクリームを集め、少しずつバターにしてギーを作る家もあります。
炊きたてのご飯や薄焼きのパンに、スプーン1杯のギーを落とす。祭りの日には、ギーをたっぷり使った甘いお菓子が山のように作られる。インドの食卓で「ごちそう」の香りといえば、ギーの香りを挙げる人も少なくないでしょう。
人生の節目に寄り添う油
ヒンドゥー教の儀式でも、ギーは大切な役割を担ってきました。ブリタニカの解説によれば、誕生、成人の儀式、結婚、そして死にまつわる儀礼まで、人生のさまざまな節目の儀式にギーが登場します。神像を清めたり、聖なる灯明をともしたり、祭壇の火に捧げたりするのにも使われます。
火の神アグニを通じて神々に供え物を届けるヴェーダの祭式では、ギーを火に注ぐことが欠かせません。ぱっと大きく燃え上がる炎は、祈りが天に届いた印のようにも見えます。
毎日の小さな灯り「ディヤ」
大きな儀式だけでなく、日々の祈りにもギーは登場します。素焼きの小皿に油を満たし、綿をよった芯を浸して火をともす灯明は「ディヤ」と呼ばれます。朝や夕方、家の小さな祭壇の前でディヤをともし、手を合わせてから一日を始めたり終えたりする家庭は今も珍しくありません。油は菜種油やごま油のこともありますが、祈りの灯りにはギーを使うという家も多くあります。
秋が深まると、インドでは光の祭りディーワーリーに向けて、家じゅうに灯りを並べる準備が始まります。窓辺やベランダ、玄関の階段にまでずらりと並んだ小さな炎が夜の街を照らす光景は、この季節ならではのものです。
食べるだけではないギー
インドには、ギーを冷たい水で100回洗い、白くやわらかなクリームにしたものもあります。「シャタダウタ・グリタ」と呼ばれ、昔から肌に塗る伝統的なクリームとして使われてきました。食べるもの、灯すもの、塗るもの。ひとつの素材をここまで多彩に使い分けてきた点に、インドの暮らしの知恵が表れています。
日本の台所でギーを楽しむ
日本でもギーは輸入食材店やスーパーで見かけるようになりました。とり入れ方は、身近なところから始めると気軽です。
- 炒め物の最初の油をギーに替えて、クミンなどのスパイスを香らせる
- 炊きあがったご飯にほんの少し落として、香りの違いを味わう
- トーストに塗る。バターとはまた違う、香ばしさが広がります
- 秋の夜長、キャンドルの代わりに小さな灯りをともし、インドの夕暮れを思い浮かべる
インドの台所では、ギーは口の広い金属の容器やガラス瓶に入れ、コンロのそばに置かれていることがよくあります。使うたびに乾いたスプーンですくうのが、昔からの決まりごとです。水気が入らないように気をつけるという心得は、日本の台所でもそのまま役に立ちます。寒い季節には白っぽく固まり、暑い季節にはとろりと溶ける。瓶の中の様子で季節の移り変わりを感じられるのも、ギーのある暮らしの小さな楽しみです。
乳製品が原料なので、牛乳などが体に合わない方は控えてください。体調や持病、妊娠中・授乳中の方は、使用前に医師に相談してください。
100回洗うギークリームの作り方や使い方については、アーユルカイの解説記事 https://ayurkai.jp/shata-dhauta-ghrita-ghee-cream/ にまとめられています。
台所の油が、夕方には祈りの灯りになる。そう考えると、瓶の中の黄金色が少し違って見えてきます。次にギーを手に取ったら、インドの家々に揺れる小さな炎を思い出してみてください。



